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『レオノーラ・キャリントン ”シュルレアリスム”を生き続ける画家』野中雅代著 彩樹社(星雲社)1997年

先日『最初の舞踏会』(岩波少年文庫)という短編集の感想記事を書きましたが、その表題作を書いた画家・作家であるレオノーラ・キャリントン(1917〜2011)の伝記です。
著者の野中雅代氏は、キャリントンの知己を得ていた、英米やメキシコ文学・文化に通じた比較文学者で、日本でのキャリントンの伝記は、おそらく本書のみだと思われます。

この本が出る前に、私はキャリントンに関する日本語の情報がほとんどないのにもかかわらず、作品世界に魅せられたという理由だけで学校の卒論に選ぶ、という無謀なことをしていました。いくつかの小説は古い翻訳があったものの、「シュルレアリスム(1920〜30年代からの美術の潮流)に関わった女性たち」というくくりでしか、断片的な情報が手に入らなかったころでした。(というのを言い訳に、アタマの悪さと外国語(3ヶ国語)の資料読解力のなさから、論文は幼稚なものでした。。。)そのころにこんな貴重な本を読めていたら。読んでいくうちに事実関係がつながり広がり、目がさめる思いでした。

そんな個人的な思い入れがある作家ですが、今までにキャリントンの展覧会も何度か日本で開かれ、国際的な評価に見合った評価が、日本でもなされているところなのではと思います。

イギリスの実業家である裕福な家庭に生まれたキャリントンは、アイルランドの伝説やドルイド教(ケルトの古代宗教)などに影響を受け、幼少期から絵画にのめりこみますが、数々のお嬢様学校を退学処分になる、不適応児童として思春期までを過ごします。
『最初の舞踏会』を地でいく豪華な社交界デビュー(向いていなかったんだろうなと思います)を済ませてからは、反対されながら美術学校で学び、当時シュルレアリスム運動のスターのようだった、年長のエルンストと熱愛の関係になってパリや南仏で行動を共にし、いきなり前衛的な運動の中心に創作の場を与えられることになります。

エルンストと親しかった時期は、キャリントンが19歳から24歳までのたった5年間くらいなのに、あまりに有名な元彼のために、キャリントンといえばエルンスト、という連想がつきまといます。
本書の中では、リアルなキャリントンの話(著者は幾度にもわたりインタビューの記録をとっています)がわかるのですが、「エルンスト期」を語るのを「ソープドラマ(メロドラマ)ね」と嫌がっているのがわかります。自分だったとしても、そんな昔のこと持ち出されても単純にイヤですよね。

エルンストとは、圧倒的な年齢差に加え合作もあるため、その時期の作品にキャリントンが受けた影響を読み取ろうとしてしまうのですが、両者は共作こそすれ、それぞれの強烈な個性が混じり合わない形で土俵に乗っている印象を受けるのが初期の作品です。

エルンストがすでに別の人と結婚していたキャリントンの入院先を見舞い、その場で共作に没頭していたエピソードなどを読むと、恋愛関係とはまた別の次元の、モチーフを共有して刺激し合うなどの創作の同志であったのだと思い、作品と重ねて納得します。

私の今まで読んできた情報(出典がもうわからなくてすみません)では、二人のこの時期はそれこそメロドラマのようにナチスや戦争で引き裂かれた悲恋物語であり、キャリントンは恋多き(実際にあまりにモテモテです)エルンストの庇護を失って寄るべなく苦しむ女性のような印象がありました。

確かに、エルンストはドイツ人であるためフランスの強制収容所へ、キャリントンはスペイン国境の精神病院に強制入院させられ、ポルトガルで再会した時には、それぞれアメリカへ(キャリントンは最終的にメキシコへ亡命します)亡命するためお互い便宜的に新しい伴侶がいるという、映画のような展開があったのは確かなのですが、第三者も語るエピソードを読んでいくと、そこにはキャリントンに依存するように頼るエルンストと、エキセントリックではあるけど、エルンストへの執着をあっさり捨てたサバサバした強いキャリントン(こちらもモテモテだったようで安心しました)の姿が見えてきました。
むしろ、さっさと前を向いている感じを受け、エルンストの影響も昇華(消化)し、狭い意味でのシュルレアリスムから脱皮していく個性の発露を感じる作品を作っていくのです。

本書も含むこのシリーズは「フェミニズム・アート」と題されています。
どのジャンルでもそうかもしれませんが、女性芸術家は男性の陰に隠れ、オリジナリティを否定されてきた歴史がありますが(身内や恋愛関係にあった男性が偉大だったから、女性が才能を与えられたというもの。芸術家ではないけど、私も「そんな音楽を知っているのは、男の影響だろう、女のセンスではない」と決めつけられたことがあります。××くらえであります。今の時代はそんなことがないと思いたいです)、その偏見と戦ったアーティストや、フェミニズム的視点から個人としての作品世界の捉え直しを試みているシリーズだと思います。

シュルレアリスムは当時の最先端であり、抑圧されていた女性を解放する面があったのも確かなのですが、そこには、シュルレアリスムにとっての女性アーティストのとらえかた(ファム・アンファン=子供のような女性。純粋で自然に近い存在で神秘的、エキセントリック、未熟かつ性的にも芸術的にもミューズ)も関係していたかと思います。今から見ると、やはり女性が理想化され、非現実化・従属的に捉えられていると思います。(平たく言うと女性から見ると、あー、わかってないよねー、わかんないかやっぱり。という感じです)

エルンスト時代より、メキシコ亡命以来のキャリアが長かったのに、私もエルンストのことをたくさん書いてしまいました💦キャリントンに怒られてしまう。

メキシコ時代では、何と言っても親友の画家、同じく亡命してきたレメディオス・バロとの魔術的世界を共有した関係に魅力を感じます。レオノーラは直感的・霊感的に、巫女的にどんどん描いていくタイプだったようですが、レメディオスは(ご存知のように)建築家の図面のように、ディテールを写し取り改めて再構築する手法をとり、非常に緻密な切手の版画のようなイラストレーション的作風のコツコツタイプだったようです。レオノーラはどちらかというと不気味で有機的な不穏なモチーフが多く、レメディオスは陰鬱で整然として、幾何学的にも美しいモチーフが多いというようにあまり画風には共通性がありません。(共通しているのは二人は女優さんのように美しすぎたことでしょうか。レオノーラは自分の顔に全く興味がなかったそうですが)

ケルトにも通ずるメキシコの非キリスト教的なエネルギッシュな土壌、魔術が生きている土地柄に影響を受けながら、近所に住んで毎日のように行き来し合い、二人は密接に接することでお互いに入り込むように影響しあい、どちらがどちらと言えないようなまで似通ったイメージ、魔術的な文法を生み出します。「片目で顕微鏡、片目で望遠鏡」を見つつ、オリジナルの幻視、オカルト、呪術・魔術・錬金術的解釈で構築しなおした世界と、そこから生み出された「魔術=イメージ=エネルギー」が、現実の政治や環境、戦争など様々な問題を変えうるのだと、キャリントンの当時の作品やインタビューや作品は語っています。
特に、自我や意識が崩壊してしまった、戦争中の入院体験から得たキャリントンの回復の過程のカタルシスは、1944年に出た『En Bas(原著:仏語で「下方へ」の意)』から「天上と地下」、地下世界の神々の大釜(死と再生の象徴とされる。レオノーラは何でも象徴象徴といわれるのが嫌いだそうですけれども)に代表される救済のイメージを形づくっていきます。

その後、ニューヨークを中心にレオノーラが正当な評価を受けるようになってから、国民的な画家として大成するまでの道のりは、私には「現在も製作中」など断片的・時系列的に混乱したことしかわからないままでした。
この本には、50年代からの彼女の芸術家としての歩みが、野中氏にしかわからないようなことが書かれていて、その歩みは私が一番知りたかったことで、個人的にはいろいろ驚きに満ちていました。

メキシコ文化はもちろん、キャリントンがブニュエルの映画に出演したことがあるなんて知りませんでしたし、戯曲や舞台芸術など前衛演劇にも関わり、ヒッピー文化が興盛した60-70年代には彼女の魔術性と時代がリンクしてブームが来、フェミニスト的立場にも立ったこと、メキシコ芸術家として認められた壁画制作、インディオの村でシャーマンから本格的な指導を受けていたこと、常に現実にアンテナを張り、繊細で明敏な目を持ち、いつも「行動の核を知ろうとしていた」、世界の真理を掴もうとしていたこと。

リアルなキャリントン、野中氏のインタビューの録音テープに、キャリントンがシチューを作る料理の音が入っていること、独特の乾いた冗談が好きだったこと、非常にエネルギッシュで「精神も肉体も、この極度に壊れやすいほど敏感な女性(90年のキャリントン)は、別の次元からの呼びかけに応じるエネルギーで充電されていた」こと(「一九九〇年代のレオノーラ」)、日本古典文学にも通じていた猛烈な読書家であったこと、特に下記のエピソードが大好きです。

 テーブルで彼女(キャリントン)は日本から持っていった『ゲゲゲの鬼太郎と日本の妖怪たち』のカタログを食い入るように、物凄いスピードで眺めていた。興味をもつと、彼女はそれをつかみ取るようにむさぼるように読んだ。それは手なづけることができない野生動物の動きに似ていた。
                      (「エピローグ」1993年夏、メキシコ より)

前からキャリントンのモチーフが妖怪ぽいとは思っていましたが、水木さんとキャリントンが空間を超え、真理を司る地下でつながっていたとは、改めて感激してしまいました。今頃あちらで語り合っているのかもしれません。。。

あとがきでは著者は、キャリントンの世界を捉えて表現する難しさに触れています。著者ですらそうなのですから、私は本当に魅力の片鱗(を混乱した形でしか)伝えられないと思うのですが、「唯一私に出来ることは、彼女とイメージが棲む領域を、提示することだった」と謙遜する著者に、この本を書いてくださってありがとうございますと深い感謝をお伝えしたいです。

最後までお読みいただいてありがとうございます。
さっ、キャリントンの本をもう一度読もうと思います。『ゲゲゲの鬼太郎と・・・』も見てみなくては!
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