9784309275611-2
『はるかな旅 岡上淑子作品集』岡上淑子 河出書房新社、2015年
(表紙画像は出版社サイトよりお借りしました)

鳥肌が立つほどひきつけられるもの、作品というのに機会は少ないですが出会うことがあります。
だんだん自分が新鮮さに欠けて硬直してくるからか、すぐれたものも目の前を通り過ぎてしまっている気もするのですが、このコラージュによる作品集を見た時は、硬直が解けてなにか血が通い出して逆流してくるような気がしました。高い画集はガマンしているのですが、これは手元に置いておきたいと買いました。もっと早く知りたかったです。

1950年代に「自分で楽しんで作って」いた100点余のフォト・コラージュを、瀧口修造に認められて個展を開いた作者は、ふっつりと制作をやめてしまいます。帯にあるように「幻の作家」としてマイナーな存在になっていたのですが、1996年に写真家の金子隆一によって再びクローズアップされ、展覧会を開くやいなや、主に女性たちがすごい引力でひきつけられ(私と同じだと思います)、キュレーターの方や美術館の方が動き出し、作家(金井美恵子氏。読まなければ!)は作品にインスパイアされ、国際的に評価が高まったそうなのです。

女性が強く反応するものが作品中に現れているのだろう、という女性特有の意識を強調した意見が多いようです。
作家ご自身も、寄稿文やインタビューの中で、作品に現れた要素を「自由」であり「女性が持つさまざまな心の綾というのでしょうか、それとも情念といいましょうか」と表現しています。

私はこれは「夜の夢の文法」で表された舞台だと思いました。夜の夢、という言葉を思い浮かべたのは、
朝、明るい光の中で起きているのに、さっきまでの夢の色は暗かったりしますが(墨をはけで塗ったような闇色)、「ヘンな夢、見てしまった。。。」と思うのに不思議と懐かしく、戻りたいような快感と解放感がある夢に似ている気がするからです。

ご本人が仰るように、情念なのかもしれないけど、語感とはまるで違ってディテールは乾ききっています。
主に美しい姿態の女性、女性が美しかった時代の、ため息の出るようなドレス(作者は文化学院で服飾デザインを専攻していました)を着た女性たちは、だいたい頭部が悪夢的にオブジェに置き換えられています。手袋や扇、鳥や馬などの動物の頭部、翼、蝶の羽、燭台、ドリル。。。
彼女たちが絶妙なバランスで、バレエの踊り手のように配置されている舞台は凄惨な廃墟であったり、ビル街であったり、絶海であったり、陰鬱で豪華な洋館の室内だったり。戦争の破片みたいなものが多数見受けられるのは戦後すぐだからでしょうか。一見不自由さを表すような、美女の頭部のグロテスクな変容は、むしろ優美さを強調し、仮面をつけて匿名性を得て自由になり、変身によって飛翔する力を得ているようにも見えます。

そしてその力強く、型にはまらない構成力にうならされ、釘付けになります。
美術評論家である瀧口修造に見出され、エルンストの画集の影響を受けた作者は、当然のようにシュルレアリズムの「枠」で語られることが多いようです。確かに、ドロテア・タニングや野中ユリさんとも少し似ているような。
ご本人はあまり作家意識がなく、「作る」のではなく「できちゃう」方であるようで、美術の潮流とも関係なく「たまたま作ったものがシュール(シュルレアリズム)的だったということになりますかしら」(インタビューより)。天賦の作家なのだと思いました。

こうしたすぐれた画集を、私は何のために見るのだろう? と今回改めて思いました。食べられるわけでもないのに、芸術作品をなぜ見ようとするのだろう?
私にとっての答えは、精神の解放、でした。宗教的な意味でない、魂を遊ばせるというか。。。
作品の中に自分の心象風景を重ねているうちに、ふだんガチガチに縛られている感覚を、水に抵抗していた身体がすーっとなじんで泳ぎだす時のように、解放してやることができるのです。
その後では、ストレッチしたあとのように心がリラックスしたり、高揚していたりするのが面白いです。

最後に、長くなってしまって申し訳ないのですが、1953年に発表された「私とコラージュ」(所収)から抜粋させていただきます。作品=舞台の出来かたを見るようだと思いましたので。
とてもとても、近年まれに見る美しい作品集です。

 コラージュを生みます私の小さな指は、鋏と糊のためには器用に働きましても彼女たちについて語る資格は持たないかのように、この指はペンを取っては思うようではございません。

  夢を抉(えぐ)るは錆た指、
  月を裂こうと夜に挑むのですか
  星が震えています。
  お嬢さん
 
  貴女の優しさに忠実であって下さい。
  ああ私、黄金色のルージュが欲しいの。

 頒(わか)たれた一人の女が、奇妙なドラマとなって青畳の上に妖しい影を落しました。
 彼女を手にした時、私は挨拶の言葉につまずいてしまいました。彼女は蛇の目のように冷く私にからんでくるのです。
 (中略) 
 再び記憶の扉を押して彼女達を連れもどそうと、私は古い鍵を尋ねましたが長い時間に拡った道のりは私を迷わせ合鍵すら見失なわれてしまった今は、一枚の薄い写真紙がコラージュという名を戴いて私にはよそよそしいのです。
 薔薇を手折った棘の痛みが彼女達に対する唯一の挨拶と変ってしまったのでした。実らぬ花の種を蒔いた咎を受けたかのように、私は咲いた女の怨に狼狽します。けれども深い皺に刻まれた掌には派手すぎる彼女達の装に、思わず目をそむけると、彼女達は誇らしげに囁くのでした。”私達は自由よ”と。
(「私とコラージュ」 「机」1953年4月号より)

最後までお読みいただ・・・いた方がいらっしゃいますでしょうか、ありがとうございます。
シュルレアリズムの年代の女性芸術家が好きなのを再確認しました。
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