『あたまの底のさびしい歌』宮沢賢治/河原真由美・画 新宿書房、2005年
(表紙写真は出版社サイトよりお借りしました)
宮沢賢治からの引力を、なんと呼んだらいいのかまだわかりません。
自分にとって、くりかえし心が帰っていく場所があるとするなら、そのひとつは故郷でもない宮沢賢治の世界であり、重ね合わせることのできる花巻なのです。
自分の話で恐縮ですが、ずっと前に体をこわした時、縁あって東北の病院へ入院することになりました。
でも幸い体調は回復したので、キャンセルの電話をかけると「温泉に入りがてら遊びにいらっしゃーい」と病院の方に言われ、湯治湯治と、のんびり出かけたのが花巻とその周辺でした。
その時は3月で、まだ零下の気温でした。宮沢賢治記念館あたりの山をひとりで歩いていると、透明で硬質な空気の中に、陽光が鋭い矢のような模様を描き、粉状に凍った光がキラキラと降っているのが見えたのを覚えています(ただのお天気雪?でしたが、何度かその後も見ました。空気が冷たいのですね)。
静かで、同時に熱い賢治の詩や書簡集をながめていると、この時のキーンとした空気が思い出されるのです。(夏はおかげで涼しくなります)
この書簡集は、短い手紙を11篇選んだものです。
書簡というのは面白い(おそろしい)ものだと思います、量は少なくても濃い情報がつまっています。
法華経に傾倒したり、ベジタリアンだったり、自己犠牲を口にしているせいか、賢治には立派な聖者のようなイメージがつきまといますが(そういう面もあると思いますが)、自分を「修羅」(インドの鬼神、武闘派)と呼んだことからも、荒ぶる魂を想像してしまいます。さらに、新しもの好き・モダンな「熱い詩人」というのが私の持つ勝手なイメージです。ご子孫によると「ストイックというよりはむしろ面白い人だった」らしいです。
そんな複合的なイメージの賢治もここには表れていますが、お互い「恋人」と呼び合うくらい親しかった親友(実際にそうだというよりは、そういう表現をする時代だったのだと思います)に宛てた手紙には、自分自身への苛立ちすら理解してくれる友へ、生のままの思考を投げかけているのが見受けられます。というかほぼ生、自分でも「私の手紙は無茶苦茶である。」と書いていますが、支離滅裂なようで、全身全霊をこめて救いを求め、まるで泣いているかのような強い、礼儀正しいのに甘えともとれる言葉が並んでいます。
昔の若い人はこんな書き方をしてたんでしょうか?? と思いましたが、宮沢賢治ですから〜!(のひとことで済ます)
わが友の保阪嘉内よ、保阪嘉内よ。
わが全行為を均(ひと)しく肯定せよ。
善行は善果悪行は悪果
無量劫を経て減せず。
然も、全ては善にあらず悪にあらず
われなく罪なく、果を受くるひともなしと。
これからの私の方針のごときは申し上げません。
ただ流れよ。流れよ。
(中略)
さよなら。
もう一度読んで見ると
口語と文語が変にまじっています。
これが私の頭の中の声です。
声のままを書くからこうなったのです。
あたまのなかのさびしい声
あたまの底のさびしい歌
(一九一九年 友人、保阪嘉内への手紙)
本書のタイトルにもとられた「あたまの底のさびしい歌」、これは大変言いえて妙というか、人間の存在の根底テーマソングというか、こんな歌や声が流れている気がする時ってありますよね。私だけかな・・・?
こんなにすぐ読めてしまう本であるのに、エッセンスのつまった、挿画も素晴らしいとても良い本だと思います。
人を励ますための文章を書きながら、実際は自分自身を鼓舞していただろう賢治の言葉を読みながら、以前も花巻で思った、細胞が活性化するような空気に触れたように思いました。
しっかりやりましょう。
かなしみはちからに、
欲(ほ)りはいつくしみに、
いかりは智慧にみちびかるべし。
(一九二〇年 友人、保阪嘉内への手紙)
最後までお読みいただいてありがとうございます。
はー、湯治に行きたくなってしまいました。
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