9784898153376l
『山伏と僕』坂本大三郎 リトルモア、2012年
(写真は出版社サイトよりお借りしました)

この本は、出たとたん増刷しているところを見ると、話題の本だったのではと思います。
あまり現役若手山伏の方が書いた本は見ないですものね!(『山伏ノート』という本も出ています)
最近、山に関する本ブームが私の中に来ていますので、私が知らなかっただけかもしれませんが、知られざる山伏の世界をのぞいてみました。

その前に、私が山伏について抱いていた疑問を書いてみようと思います。社会科見学の小学生レベルですがご勘弁ください。

 ・山伏は職業なのですか。どんな人がなりますか
 ・お給料はもらえるのですか。生計は立てられるのか。
 ・どんな宗教団体(寺、神社)に所属しているのか。免許や免状がありますか
 ・女性はダメですか
 ・超能力がやはり備わるのか
 ・ほら貝の意味と吹き方について。なぜ山なのに貝なのか、吹くのは難しいか
 ・天狗は山伏的にどういう位置付けでしょうか。また一般人は山伏にとってどういう対象ですか
 ・地方によってどう違いますか
 ・山伏や山伏修行はどんな目的でなったりしたりするものなのか。どんな場面で活躍するのでしょうか

(部分的な答えが本書にのっています。お給料については、ないような気がします)

私の持っていたイメージは、山伏の文化である「修験道」は秘密の世界で、難解でわかりにくいのではないか。よく知っているようなお寺のお坊さんでもなさそうだし、一般によく知られていないためか「ホラを吹く」などという言葉に表されるように、宗教者というよりは山を股にかけたワイルドでちょっと大げさな「異世界の人」という印象でした。

著者は1975年生まれのイラストレーター、山伏です。山形の羽黒山をベースに修行、「古くから伝わる知恵や芸能の研究実践を通して、自然と人を結ぶ活動をして(著者紹介より)」おられます。
山伏というと筋骨隆々・ヒゲボーボー(修行中刃物は当ててはいけないとのことです)・弁慶っぽいルックスを私は思い浮かべてしまうのですが、著者は繊細な感じのアーティストタイプの外見で、少し意外な気がしました。

山伏の修行のきっかけは「面白そう」という思いつき。一見軽そうな思いつきですが、読み進むうちにじつは著者を導くような要因があり、浅いものでなかったことが伝わってきます。
「なんとなくやってみたかった」という淡い思いは、実はその人の大事ななりたち・アイデンティティーや、ヘタすると死生観のようなものの上澄みなのかもしれません。

やはり「山伏は職業なのか」とよく聞かれるそうです。が、たいていの山伏は普通に生活をして、他にお仕事を持っている場合が多いそうです。昔は「どうして山伏になったんですか」という質問はタブーだったとのこと。「山は権力の及ばない他界と考えられ、山伏は自分の葬式をあげ、自分を死者と考えて山に入るので、俗世間のおこないは問題にされない」のだそうです。

あの修行中の白装束は、そういう意味だったのですね。厳しい規律に従って、夜の山もハードに巡り歩き、もう一度山の胎内より「出生(でなり)」=生まれ出て再生するのだそうです。
現代の山伏の多くは密教(仏教宗派の影響下にある)の行者さんであり、著者のように東北の土着・原始信仰のなごりにひかれるような修行のあり方とはまた違うようなのですが、私はどちらかというと、まさにそっちにひかれますので興味深くぐいぐいと読みました。
なにせ著者はナイーブといいますか、素直というか、文章がとても読みやすいのです。

本書は「はじめての山伏修行」「松例祭」、山伏の歴史についての「山伏のはじまりへ」、本格的な修行「秋の峰入り」、修行の「無意味さ」(衝撃的だけど何だか納得! 無意味なことの深さってありますよね)についても語られる「山伏から知ること」、「てけとー」主義な大阪の山伏、鉄砲水さんとの話「山伏と僕」という章に分かれています。
おまけとして「法螺(ほら)の作り方」が載っています。法螺貝はネットで購入できます。

夜の山を歩く部分は、ページが黒くて白い文字が浮き上がり、著者による木版画のようなイラストが添えられて、夜を実感することができます。美しいです。

例によって面白いところにフセンを貼っていったら、全部のページになりそうだったのでやめました。
全部紹介したいですが、我慢して少しだけ。

はじめての山伏修行(3日間、女性もOK)で著者が行った湯殿山の大岩の話が強烈です。
御神体である真っ赤な巨岩は、割れ目があり温泉が噴き出すという、とんでもなく存在感がある岩です。しかもそれが、脈打って感じられ、人体にも似た生々しい弾力が伝わってきたというのです。
(岡本太郎も、同じ岩で受けた感動を書き残しているそうです。そういえば岡本太郎といえば縄文ですね!)

著者もやはり芸術家でもあり、修行中で鋭敏になっていたためでしょうか、その岩に触ったとき「自分の感覚が過剰になって、破裂してしまったよう」な衝撃を受けます。確固とした目的があるわけでもなく参加した山伏修行の中で、胎児のときの記憶のような「闇」を持っていた者として、その
「「闇」が、僕の前に再びあらわれました。死に、胎児となり、魂の集まる母なる山で修行する山伏は、僕に馴染みのあるものだったのです」という親和性、ここに来たわけに思い至るような体験をします。
(私も今すぐ湯殿山に行きたくなりました。ちょっと土着パワーに触れて、温泉に入りたいだけかもですが)

山伏にとって死活問題である「熊に遭遇したときの対処の仕方」も先輩に聞いた話として載っています。先日アップした「クマにあったらどうするか」とあまり変わりませんでしたが、万一襲われたら、急所の鼻を狙うといいそうです。熊より恐ろしいのは蜂だそうなので(何度も刺されると呼吸困難で死んでしまうため)、蜂のことも調べようと思いました。

修行者による「天狗相撲」も興味深かったです。勝者は「梵天(ぼんてん)」という縁起物を持ち帰って宝にするそうなのですが、あるオリンピック選手はこれを持ち帰り、金メダルをとったそうです、というかオリンピック選手も山伏修行をするのかー、と驚きましたが、心身精神の鍛錬、山岳トレーニングと考えれば確かに納得です。ハードな世界だなあ。。

「秋の峰入り」の修行終盤、さまざまな人の願いや祈りをかわりに引き受け、行者たちは般若心経を寝ずに唱えます。激しい行の行程を終え、すでにこの世の者ではない者として、深い信仰の対象としての山と一体になり、祈りを届ける役目だと思われます。

ここに至り、俗っぽい疑問の数々が恥ずかしくなりました。お金じゃないのです。
私は現実的なつもりですが、非科学的と思われる「祈り」や「うやまう気持ち」「信仰」がどれだけ力を持ち得るか、という話も尊重しています。でも目に見えないものでもあるし、その総体を何と言ったらいいのかわかりませんでした。
この本には私の納得したかったそうした「もやもや」がシンプルな言葉で言い表されていました。
長くて申し訳ないですが、引用させていただきます。

 僕は文化の生まれた姿を目にしたくて、山伏の修行に入ってみました。仏の境地に達したいとも、験力(げんりょく=超能力のような力)を得たいとも思っていない僕には、正直に言えば、修行は無意味なものに思えました。では、修行を通して自然の中で見たあの闇や、溢れんばかりの光はどうでしょう? それもまた、「無意味」なものに思えます。無駄ということではなく、得体が知れない、意味がとれない感じです。でも、向き合うべき無意味だと思いました。人間の歴史は、この無意味と向かい合ってきた歴史であると言っても言い過ぎではないと僕は今、思っています。(本文より)

つい「なんの意味があるのか」、下手すれば「それがどう役に立つのか、何になるのか」。もっと下手すると「お金をかける価値があるのか」、自分でも考えてしまうし、「それ回収できる?」と(いもしない)人に聞かれたときのために答えを用意している自分を思いました。
無駄が好きなのに、無駄が自分の身を滅ぼす、という勘違いの世界に生きている気がしてきました。
意味なんかないんだよねえ。でも、意味考えちゃいますよね。

著者は千葉西部の山伏(に似た人たち)が多様な生態で生活していたことを知ります。たとえば、普段鍛冶屋や飴屋であり、竹かごを編んだり、薬を調合したり・・・けして専業の「専門家」ではなかったことを表す「カニ(鉦・かね)打ちの七変化」という言葉があったようです。(千葉には、あまり知られていないけど民間伝承の古い文化が残っているのだそうです。興味深いです)
その器用さからできることは多いけど、何かを極めた専門家でなければ認められないのではないか、と自分を責めていた著者は、心が軽くなったといいます。

私からすれば、なんでもできてすごいと思うのですが、山伏として自然との関わりを深め、「誰かの評価に左右される気持ちよりも深い部分に「自然」が据えられるようになった」著者は、指針を得て現代に生きる山伏として、おそらく芸術家、求道者としても落ち着いて生きる道を見出したのだと思います。

あまりよくない山伏(他人に対して否定的・知識をひけらかす)にならないように、と反省したり、「お前は山に行って修行しているのに、まったく成長しないな」と友達に俗っぽさを冗談半分に責められたり。そんな著者は「深い山の中に入って、自分の身体を通して、かつての人たちと同じように自然と向き合ってみること。毎日の生活の中で、そのままの自分で生きること、それが僕にとっての山伏です。」と語っています。
興味がなければ、「自然と向き合う」ってつるっと通り過ぎてしまう言葉になりかねないのですが、この言葉は私に「音楽と向き合う」「自分と向き合う」「家族と向き合う」と同じように、「やってみて続けてみなさい、わかるから」的実践的な言葉として受け止めることとなりました。

今日もまた大変長い文章を読んでくださって、ありがとうございます。
ちなみに、著者は最近お店 もオープンされたようです。イタチの皮も売ってるお洒落なお店です。

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いつも本当に、ありがとうございます。