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『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』北山耕平著、太田出版、2007

 アメリカ「先住」民族である「インディアン」についての話は往々にして、
過去の遺物として珍しい「 インディアン習俗」を狭い意味での民俗学に押し込めてしまったり、アメリカの黒い歴史のひとつとして隠蔽されたり、その罪悪感からか必要以上に美化・商業化された「インディアンの教え」として一人歩きしてしまいがちな印象があります。
 
この本は「インディアン」の智慧者、聖人ともいえる「メディスン・マンまたはウーマン」との交流を通じて、彼らの世界観を汲み取った著者が、その世界を伝えるものです。

一般的な捉え方とちがう点は、「ネイティブ」という言葉を切り口に、今に生かす精神性を主軸に置いている点です。ネイティブという言葉は、本来の出生の、という意味ではありますが、ここではより「土着の」「本来の」という意味に焦点が当てられていて、ネイティブは「生きている博物館」などではなく、学ぶ(取り入れる)べき対象としての「地球に根を生やして生きる人間」とその考え方を表しています。

またその精神性を自分たちのものとして生かしたとすれば、
「なぜアメリカン・インディアンの精神性を取り入れるべきなのか」
「「日本人」にとってのネイティブとは誰なのか」
「日本人をやっている我々は誰なのか?」などの疑問にも答えるために、縄文と弥生の世界観および「日本人」という概念の捉え直しも行っています。

(アメリカンおよびジャパニーズ)ネイティブ=縄文的な考え方、ととらえるとすれば、その世界観は
「はじまりも終わりもない、数千年サイクルの時(環境)が円環を描いてゆっくりと再生される」時間の中、大地と一体化したあらゆるものが有機的に再生し続ける「われわれは地球に属する」という捉え方としてイメージされています。

対して非ネイティブ=弥生から現代に連綿と続く西洋的世界観(とざっくりと)をまとめるとすれば、時代は直線を描いていて、物事は進歩し続け、自然は征服・奪い・消費利用するものであり、業績は伸び続けなければならず、廃棄物は知ったことではないという諸原理に反した、「地球は我々に属する」という捉え方として表されています。

1970年代以降、物質的な現代社会を「ネイティブ」的視点で捉え直し、批判する考え方は珍しくはありません。環境教育でも繰り返し言われることなので、むしろわかりきった状態なのにもかかわらず、現代の人間は未来のない非ネイティブ的振る舞いを選択せざるを得なくなっています。
しかしそれは本当に選べないものなのか、両立して行き来する生き方もあるのではないか、と著者は問いかけます。

著者の北山耕平氏は、伝説の雑誌「宝島」立ち上げから始まり、「ビックリハウス」「POPEYE」など日本のサブカルチャー主要雑誌の多くに関わり、影響を与えてきた編集者・作家です。時代の最先端を作り出す・感応することと、グラウンディング(地に根を張る)の両方向を体現してきた人物なのだなと思いました(個人的にその方向性にあこがれます)。

この作品には取り上げられてはいませんが、アメリカン・ネイティブの中には、白人に取り上げられた聖地を核爆弾の実験場にされ、汚れた土地の近くに住まざるを得なかった上、今に至るまで後遺症に苦しんでいる民族もいます。日本もほぼ同じであることに思い至ります。

様々な理由で、自然や固有の文化的基盤やコミュニティが破壊されても、ネイティブの人たちはこの世から自然の神秘や規則、教えを学ぶ感覚を呼び覚ます文化をその底に持っているのではないか・・・
ある世代より上の人たちにとっては、古びて埃をかぶったような考え方、ある時ファッションのように消費されてきたスタイルかもしれません。
それでも、川が枯れても地下水脈は存在するように、表面では見えない真理があるのではないかと思います、見かけに左右されるのではなく。

これは福島の原発事故より以前に書かれた本ですが、原因は違うけれども(大もとでは近いのかもしれませんが)読みながらどうしても重ねて考え合わせてしまいました。途方もない状況に、無力感を感じることが続いていますが、せめてもの救いを求める気持ち、打開策の参考とならないかと思うのです。
そしてひょっとして、宗教と金をめぐって争い続けるこの世界がどうなるべきなのか、どこへ向かうべきなのかを考えることができるのかもしれないと思うのです。 

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